No.057 “ランナーズ・ハイ”と脳内物質エンドルフィン

前回は「動じない」幸せホルモンエンドルフィンについて解説しました(*1)。エンドルフィン (Endorphin) は脳内で産生されるモルヒネ様物質で“脳内麻薬”、“内因性オピオイド”とも呼ばれています。この物質は“多幸感”や“高揚感”といった精神状態にも関連していると言われています。


“多幸感 (Euphoria)”を説明するときに分かりやすい例の一つが“ランナーズ・ハイ (Runner's High)”という現象です。これはマラソンランナーなど長距離を走っている状態で、通常なら“走り続ける”という肉体を酷使した状況では“走行中は苦痛に耐え続けている”と思われるかもしれません。しかし、ある条件に達すると“肉体的な苦痛を感じなくなる”、“体が軽く感じる”、“走るのが快感に感じる”、“走るのを止めたくないと感じる”、というように精神状態が変容します。


もしかしたら同じ様な感覚を経験したことがある人もいるかもしれません。私も学生時代は部活動の練習で長距離走を毎日やっていたことがありますが、ある時に体が軽くなり、ずっと走り続けていたいような感覚になることを経験しました。今回はこのランナーズ・ハイエンドルフィンの関係を調べた研究に迫りたいと思います。

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今回紹介する研究は「The runner's high: opioidergic mechanisms in the human brain (ランナーズ・ハイ: 人間の脳のオピオイド作動性メカニズム, *2)」というタイトルで2008年に公表されたドイツからの研究です。


研究参加者
研究対象となったのは平均年齢36.9歳(33〜40歳)の10人の男性マラソンランナーで、いずれも薬物の使用などない健康な成人で「ランナーズ・ハイの経験がある人」が選ばれました。研究参加者は安全に研究が遂行できるように日頃からのトレーニングを行っていることが条件とされ、実際に週平均8.6時間のトレーニング、8人がフルマラソン経験者、残り2人もハーフマラソン経験者でした。


・検査方法
検査は脳内物質エンドルフィンを調べるためのPET検査(*3, *4)と精神状態を調べるアンケート(*5)が行われました。
検査方法はランナーズ・ハイの状態を分かりやすく比較するために最初に「24時間以上スポーツしていない安静状態」で脳のPETスキャンと心理アンケートを行います。そして約4週間後に「20km程度のランニング練習を終えて30分後」に脳のPETスキャンと心理アンケートを行いました。もちろん参加者はこの時だけランニングするのではなく、日頃からランニングを行っており、最初の測定時の時だけランニング練習をしない状態で検査を受けました。

・脳PETスキャン測定原理
エンドルフィン(β-Endorphin)は細胞表面にあるμ(ミュー)-オピオイド受容体(μ-Opioid receptor)と結合することで効果を発揮します。この研究ではエンドルフィンと同じようにオピオイド受容体と結合する [18F]FDPN (tracer 6-O-(2-[18F]fluoroethyl)-6-O-desmethyldiprenorphine)という物質が標識物質(トレーサー)として使用されました(Figure 2A)。

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この[18F]FDPNというトレーサーは脳細胞の表面にあるオピオイド受容体と結合してPETスキャンで映るような信号を発します (*3, *4)。脳内物質のエンドルフィンが少ないとき (Figure 2B)、細胞表面には空席のオピオイド受容体がたくさんあるため、このトレーサーが受容体に多く結合してPETスキャンで信号が強くなります。

反対に脳内物質のエンドルフィンが多くなると (Figure 2C)、オピオイド受容体の多くがエンドルフィンと結合するため、[18F]FDPNは少ししか結合できずPET信号は弱くなります。この検査では“PET信号が弱くなった場所=エンドルフィンが多く結合している”ということが示されます。


・精神状態の調査
感情や気分は客観的評価が難しいのでこれまでのようにVAS (visual analogue scale)の一種でVAMS (visual analogue mood scale)という“0〜10の間の任意の位置で点数を示すスケール”で評価されました (Figure 3)。評価項目は“悲しさ(sadness)”, “緊張 (tension)”, “恐怖 (fear)”, “怒り (anger)”, “混乱 (confusion)”, “疲れ (fatigue)”, “幸福 (happiness)”, “活力 (energy)”, “多幸感 (euphoria)”という8項目が設定され、こちらも安静時とランニング後30分の時点で参加者によって回答されました。
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・結果:運動前後の気分の変化
まず研究参加者のランナー達が実際にランナーズ・ハイを起こすのか、またそれ以外の感情の動きが無いのか、という点について解析されました。安静時の気分とランニング30分後の気分を比較したグラフがFigure 4になります。

調査された8項目の中で有意差があったのが“幸福度 (happiness)”と“多幸感 (euphoria)”の2つでした(FIgure 4赤枠)。幸福度 (happiness)は元々高かったですが、ランニングの後にさらに増加しています。そして多幸感 (euphoria)についてはグラフを見ても2倍程に大きく増加していることが分かります。幸福度 (happiness)については「幸せ/満たされている」という日頃から感じている気分と思われますが、多幸感 (euphoria)については「込み上げる至福/笑い/陶酔感」のように普段の幸せを超えた溢れ出るような感覚と考えられます(*6)。

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そしてグラフを見ても分かるように、“恐怖 (fear)”、“混乱 (confusion)”、“悲しさ (sadness)”といった負の感情は有意ではありませんが減少していることがわかります。また、20km程も走った後ですが“疲れ (fatigue)”はほとんど増えてないか、むしろ減少しているように見えます。やはり“ランナーズ・ハイでは疲れも感じない”というのは本当のようですね。


・結果:脳内エンドルフィンの変化
Figure 5上段に[18F]FDPN PETスキャンの画像の一部を示します。この画像は「安静時とランニング後のPET画像を比較して信号が減少した部分(つまりエンドルフィンが作用した部位:Figure 2参照)」が赤く強調されています。これを見ると脳の様々な部位でエンドルフィンと受容体が分布していることが分かります。特に眼窩前頭皮質 (がんかぜんとうひしつ、OFC: orbitofrontal cortex)、前帯状皮質 (ぜんたいじょうひしつ、ACC: anterior cingulate cortex)、島皮質 (とうひしつ、INS: insula)という領域で顕著でした。
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そしてFigure 5下段の画像は「[18F]FDPN PET信号と多幸感スコアの逆相関が見られた部位」を可視化したものです。これらの場所で“多幸感 (euphoria)”のスコアとPET信号の減少 (エンドルフィンの活性) が相関していることが示されました (Figure 6)。これらの脳の部位が多幸感に直接関与しているかどうかはまだ断定できませんが、今後の研究の発展につながると考えられます。

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・この研究のまとめ
 - ランナーズ・ハイという現象は客観的に見て存在する
 - マラソンランナーではランニング後に多幸感が有意に増加する
 - ランナーズ・ハイでは疲労感はむしろ減少傾向であった
 - エンドルフィンは脳の広範な部位に作用していた
 - 多幸感とエンドルフィン活性が相関する部位がみられた
これらの結果を総合的に見て、「持続的な運動と多幸感(ランナーズ・ハイ)と脳内エンドルフィンには密接な関係がある」ということが言えそうです。


・注意喚起:“急なオーバーワークに注意”
ここまで読むと、すぐに運動したくなる、明日からやってみよう、と考える人もいるかと思います。ただし、焦らずによく準備をしてから始めるべきだということが以下に紹介する研究で分かると思います。

不用意にマラソンを行うリスクについて知っておくべき研究があります:「Myocardial injury and ventricular dysfunction related to training levels among nonelite participants in the Boston marathon(ボストンマラソンの非エリート参加者のトレーニングレベルに関連した心筋損傷と心室機能不全, *8)」。この研究では「フルマラソン参加者における、普段のトレーニング量と心筋へのダメージの関連」を調べています。

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Figure 7のグラフでは横軸に練習量、縦軸に心筋損傷のバイオマーカーである心筋トロポニンT (cTnT)の量を示していますが、赤枠で囲んだ“トレーニング量が最も少ないグループ”が心筋損傷の程度が飛び抜けて高いことがグラフからも分かります。このデータや他の研究からも「普段十分にトレーニングをしない人がフルマラソン完走など過酷な運動を行うと心臓リスクが高い」ということが示されているので注意しましょう (*7, *8, *9)。


・但し適切な運動習慣は健康に良い
ただ、以前から言われているように「運動習慣は健康・長寿をもたらす」ということは間違いありません。Figure 8は適度なエクササイズが“心臓死亡率・全死亡率”にどのような影響をもたらすかという表です(*10, *11)。

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これを見ると「適切な運動習慣を取り入れることによって全死亡率が27%減少する」「運動習慣で心臓死亡リスクが31%減少する」ということが示されています。しかもこの結果はコクラン・ライブラリーという医学界では“最上級のエビデンス”と認識されているデータベースから得られたのでほぼ間違いないデータと言えます(*12, *13)。



・適切な運動法
これまでの研究をまとめると持続的な運動は良い効果をもたらしますが、やり方を間違えるとかえって逆効果になるということです。良い効果を得るには適切な方法で運動に取り組む必要がありそうです。

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運動時の注意点まとめ
 ・急に始めない
 ・健康診断などで自分の状態を把握しておく
 ・適切な装備/服装で始める
 ・ストレッチを入念に行う
 ・急に全力を出さない
 ・まずは軽い準備運動から始める
 ・急に過激な運動をしない
 ・無理せず適度な範囲で運動を行う
 ・筋肉痛が起こることを計算に入れる
 ・突発的に始めたり止めたりしない
 ・軽い負荷でも継続する方が良い
 ・水分/栄養補給/適切な休息を摂る
これらが守られていれば健康長寿につながる適切な運動ができると思います。


今回は“ランナーズ・ハイとエンドルフィン”についての研究を紹介しました。「無理のない範囲で持続的な運動を行う」ことによって「脳内エンドルフィン放出が増加する」ことが分かりました。そして「脳内エンドルフィンの増加」が「多幸感、高揚感を増進させる」ことに関与してそうです。さらに「疲労感や恐怖感といった苦痛も感じにくくなる」といったデータも示されていました。

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幸せホルモン:エンドルフィン”は長時間走る肉体的負荷や疲労さえも「幸福感・多幸感」に変えてしまう魔法のホルモンのようです。このエンドルフィンを増やす一つの方法がマラソンのような“適度な負荷の持続的な運動”であることが分かりました。エンドルフィンを増やすことによって「幸福感を高め、苦痛や疲労を感じず、感情的に安定した」精神変化ももたらされるようです。この肉体と脳内物質エンドルフィンの関係をよく理解し、上手にホルモンを増やすことによって心と身体のバランスを健全に整えていきましょう。肉体と感情に支配されずに、逆に自分の意志が感情と肉体をコントロールしていくと心と身体の良い状態が維持され、どんな目標でも達成できそうですね。


引用:
https://note.com/newlifemagazine/n/n4ab203a16960
*2. Boecker H, Sprenger T, Spilker ME, et al. (2008). The runner's high: opioidergic mechanisms in the human brain. Cerebral cortex, 18(11), 2523-2531.
*3. ポジトロン断層法 - Wikipedia. https://ja.wikipedia.org/wiki/ポジトロン断層法
*4. PET-MRI, Wikipedia. https://en.wikipedia.org/wiki/PET-MRI
*5. Stern RA, Arruda JE, Hooper CR, et al. (1997). Visual analogue mood scales to measure internal mood state in neurologically impaired patients: Description and initial validity evidence. Aphasiology, 11, 59-71.
*6. 多幸感 – Wikipedia. https://ja.wikipedia.org/wiki/多幸感
*7. Scharhag J, Herrmann M, Urhausen A, et al. Independent elevations of N-terminal pro-brain natriuretic peptide and cardiac troponins in endurance athletes after prolonged strenuous exercise. Am Heart J 2005;150:1128 – 1134.
*8. Neilan TG, Januzzi JL, Lee-Lewandrowski E, et al. Myocardial injury and ventricular dysfunction related to training levels among nonelite participants in the Boston marathon. Circulation 2006; 114:2325 – 2333.
*9. Schmermund, A., Voigtländer, T., & Nowak, B. (2008). The risk of marathon runners–live it up, run fast, die young?. European heart journal, 29(15), 1800-1802.
*10. Thompson PD, Buchner D, Pina IL, et al; American Heart Association Council on Clinical Cardiology Subcommittee on Exercise, Rehabilitation, and Prevention; American Heart Association Council on Nutrition, Physical Activity, and Metabolism Subcommittee on Physical Activity. Exercise and physical activity in the prevention and treatment of atherosclerotic cardiovascular disease: a statement from the Council on Clinical Cardiology (Subcommittee on Exercise, Rehabilitation, and Prevention) and the Council on Nutrition, Physical Activity, and Metabolism (Subcommittee on Physical Activity). Circulation 2003;107:3109 – 3116.
*11. Jolliffe JA, Rees K, Taylor RS, et al. Exercise-based rehabilitation for coronary heart disease. Cochrane Database Syst Rev. 2001;(1):CD001800.
*12. Cochrane. https://www.cochrane.org/ja/evidence
*13. コクラン(Cochrane)– Wikipedia.https://ja.wikipedia.org/wiki/コクラン_(組織)

画像引用: 
*a. Image by rauschenberger. https://pixabay.com/ja/photos/日没-スポーツ-ジョギング-3982753/
*b. Image by pikisuperstar. https://www.freepik.com/free-vector/hexagonal-futuristic-net-background_5765863.htm#from_view=detail_alsolike
*c. Image by kjpargeter. https://www.freepik.com/free-photo/glowing-abstract-virus-cell_6038275.htm#query=cell%20receptor%20cg&position=6&from_view=search&track=ais&uuid=813f2898-6c00-43a6-a022-78c3b3e7e62a
*d. Image by Phylum. https://pixabay.com/ja/illustrations/生成されたai-心臓-人間の体-8490212/
*e. Image by Dejan Kristevski. https://www.pexels.com/ja-jp/photo/1582161/
*f. Image by Ashford Marx. https://www.pexels.com/ja-jp/photo/8552345/
*g. Image by nensuria. https://www.freepik.com/free-photo/group-women-running-park_1623622.htm

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